第5章:AWAKING!
〜進展・逆転・大失点〜
「……せ、先輩……私、ちょっと……疲れました……」
「あ、ごめん」

有子が息を切らしていることに気づき、達也は立ち止まった。そして、ずっとつないでいた手をそっと離す。

「大丈夫かい?」
「あ……はい……」

しかし言葉とは裏腹に苦しそうだ。男である達也のペースに合わせていたのだから、無理もない。油断なく周囲を見回した後、達也も緊張の糸を緩めた。

「とりあえず『ジャバウォック』の目はここまで届いてない、か……」
「……どういうこと、なんですか……?」

呼吸を整えた有子が尋ねる。走りながら何度も聞こうと思っていたが、彼の真剣な表情にためらってしまっていたのだ。
けれど、もういいはずだ。

「教えてください」
「昔――」

視線を逸らしたまま、達也が不意に口を開く。

――あっ、まだ心の準備してないのに〜。

有子の目が少し恨めしいものに変わる。
まあ、他人のテンポに文句は言えないと思うのだが。
その視線に気づいていないのか、或いは知らん振りをしているのか、達也は構わず言葉を続けた。

「昔、『ありす』という女の子がいた。彼女は優しい子で……でも、だからこそ余計に傷つきやすい子だった」

達也の表情に微笑みと悲しみの混ざりあったものが浮かぶ。
有子は胸が痛むのを感じた。自分が触れてはいけない何かに、手を伸ばしているような気がした。

「『ありす』はやがて、友達を生み出していった」
「友達を……生み出す?」
「そう。本の中に住む、夢の世界の住人たち。『ありす』は淋しさを紛らわすために、彼らを創り出したんだ」

――どくん――

有子の中で、また何かが脈打った。頭の芯が、痛い。

「永沢さん?」

――友達だもんな――
――怖くない、怖くない……だよ――

誰?
頭の奥で響く声に、有子は叫ぶ。知っている気がする。懐かしささえ感じる。
でも――。

「誰……なの?」
「永沢さん、落ち着くんだ」

素早く駆け寄った達也が、倒れそうになる有子の身体を支える。
その瞬間、再び声は強くなった。

――大丈夫さあ――
――でも、怖いの……『じゃばうぉっく』は怖いの――
――俺が追い払ってやるよ――

「……だめ……『ジャバウォック』……怖いの……」
「逆らっちゃいけない! ゆっくりと受け入れるんだ!」
「せ……」

先輩。
そう言おうとした。だが、有子の脳裏に1人の少年の面影が浮かぶ。
そしてそれは――達也と重なった。

「……誰……先輩? 違うんですか……?」

達也は悔しそうな表情をかすかに見せる。

――まだ早すぎたのか……?

「早すぎた……?」

無意識に呟いた言葉に、達也はさっと顔色を変えた。

「永沢さん、今、僕の心を……」
「ごめんなさい……私……ずっと抑えてきたのに、でも……」

有子は顔を伏せた。
自分が持っている能力――それがテレパシーと呼ばれるものだと知ったのは、自分で制御できるようになってからのことだ。そして、この力を持っている者がほとんどいないと知ったのも、同じ頃。

<不安がることはないよ>
<え?>

突然、心の中に響いた声が有子を驚かせる。

<僕も永沢さんと同じ能力を持っているから>
<本当……なんですよね?>
<もちろん>

有子も彼の言葉が真実だと分かっていた。達也は間違いなく自分の心に向けて語りかけてきている。何より、言葉とそれに込められた感情も分かる。

嘘じゃない。

<よかった……落ち着いたみたいで>
<……あ>

そう言えば、さっきまでの異常な昂ぶりがすっかり消えてしまっている。

<どうして……?>
<永沢さんは1つのことに集中しちゃうタイプだしね……>

2つ以上のことを一緒に考えられないタイプ、と言わなかったのは正解かもしれない。

すねちゃうから。

「先輩は……私のこと知ってるんですか?」

有子はあえて肉声を使った。

「小さい頃の私を、知ってるんですよね?」

それは質問ではなく、確認だった。何となく、分かりかけてきたのだ。達也がなぜ自分を守ろうとするのか。

でも。

それなら、なんで自分は忘れてしまったのだろう……?
自分自身のことを。

「私が……私が先輩の言う――」

<見つけたぞ>

声が、響いた。
圧倒的な迫力と恐怖をまとわりつかせた、声が。
2人の周囲に、薄い闇の帳が落ちた。辺りが見えなくなるほどではないが、言い様のない不安を掻き立てるような――そんな闇だ。

不意に、達也が膝をついた。がくがくと全身を震わせ、額から脂汗を滲ませている。

「先輩?」
「……く、来る……『ジャバウォック』が……!」

ゆらりと、闇が動いた。ゆっくりと有子の目の前に集まっていき、次第に何かを形作り始めた。

――どくん――

まただ。有子の中で何かが悲鳴を上げている。「逃げなきゃ」と何度も叫んでいるのが分かる。だが、震えたまま動かない達也を置いてはいけない。

それに。

――どくん――

怖い。怖くてたまらない。得体の知れない、いや、忘れていた何かが姿を現そうとしているから――。

それが、彼女の身体を縫い止めている。

<……見つけたぞ、我を生みし者よ……>

闇が鋭い爪を、太い牙を、恐竜を小さくしたような外見に変わる。
有子は思い出した。
自分がずっと封じていたもの――恐怖を。

「……いや……出て、こないで……!」
「もう、駄目か……」

絶望に彩られた言葉を、達也が吐いた。
もし、希望があるとしたら……。

「……鬼堂くん、天草くん……それに、江島さん」

達也は祈った。
万が一つの奇跡を。それを起こせる、彼らの無事を。

「時間稼ぎくらいはしてみるよ……僕も生徒会の一員だからね」




「――分かった?」
「ああ」

信吾が通信機に向かって頷く。おそらく向こう側の霞に、その仕草は分からなかっただろう。それほど、画像の乱れは激しくなっている。

「ホントに、うまく……いくんだろうなあ……」

隣の龍之介はダウン寸前だ。息を吐くのと同時に話している。

「江島さんは自信満々120%って感じだったよ」
「いつもの……ことじゃん」

突っ込みもパワーダウンしている。
まずいな――信吾は思った。ここから生徒会本部まで、まだ距離がある。今の龍之介にはつらいかもしれない……。

「とにかく、作戦内容はさっき話した通り。時計が狂ってるから、時間合わせはできないけど……遅すぎず、早すぎず頼むよ」
「どっちなんだよ……」
「妾もはっきりした方が好みじゃぞ、霞とやら」
「そう言わないでよ。指示したのは江島さんなんだし」

『女王』との経緯については、すでに話してある。互いの顔も判別できない状態ではあったけれど、幸い2人ともそんなことにこだわらなかった。

「お前たちは愛美とかいう女を余程、苦手にしておるようじゃな」
「……会えば分かるって」
「むう……確かにそれは言える。百聞は一見に如かず、だな」
「僕、今回はノーコメント」

三者三様の答えに、『女王』は半ば呆れたようだ。大の男が3人揃って情けない、と表情が語っている。

「まあ、いい。江島くんには了解したと伝えてくれ」
「んじゃ」

ぷつっと小さな音を残して、通信が途絶えた。

「……どうする、鬼堂」
「何がだ?」

龍之介がわずかに目を細めた。滅多に見せることのない、真剣な眼差しだ。

「このままのルートで行けば……本部に行く前に追いつかれる……あいつら、スタミナだけは無尽蔵みたいだからな」

忌々しそうに、背後の『トランプの騎士』へ目を遣る。今まであまり触れられなかったが、彼らは鬨の声を何度か上げている。かなりうるさいので、3人とも意識してカットし続けてきていたが。

「……歌手真っ青の喉だよなー」
「話を進めろ、天草」
「せっかちな男は嫌われるぜ、シンちゃん――まあ、それはともかく……」

殴られないうちに、素早く話題を変える。

「近道はあるさ。ちょっとデンジャラスだけど」
「どこに?」

怪訝そうな顔をしながら、『女王』は羽扇を振った。後ろの『騎士』たちが数体、あっけなく吹き飛んでいる。さり気なく2人を守っているらしい(単に暇なだけという見方もあるけれど)。

「それにどういう意味じゃ、でんじゃらすとは?」
「……お前、まさか」

『女王』のボケを無視して、信吾はじろりと睨んだ。方策なら彼も色々と考えていたから、龍之介の言う「近道」もすぐに閃いた。
しかし、危険すぎる。自分1人なら、確実にやっただろうが。

「あ、やっぱり分かる?」

鬼の風紀委員長の一睨みにも、龍之介は平然としている。

「そのまさかだったりするんだよなー。シンちゃん、頭いいっ♪」
「ふざけるなっ。お前がやろうとしている事は、無謀に過ぎるっ!」
「どういうことなのじゃ、鬼堂?」

信吾は憤然したまま、『女王』の問いに答える。

「こいつは『騎士』たちを突っ切って行こうと言うのだ!確かにこのまま進むよりは本部へ早く着ける。だが……!」
「俺なら……大丈夫だって」
「へたばった身体では説得力がないぞ」

何だかんだ言って、信吾は龍之介のことが心配らしい。
龍之介もそれは分かっているけれど、正直に従うほど素直ではない。そもそも、信吾と自分は喧嘩しあっているから面白いのだ。
肩を組み、友情を熱く語る自分たちなど、想像したくもない。

――汗臭いのは苦手だしね。

そう結論づければ、龍之介のやることはただ1つ。

「シンちゃん、ひょっとして自信がないんじゃないのか?自分の実力じゃあ、あいつらを突破できないって怯えてるんだろ?」
「な、何をっ!?」

怒りで声が上擦る信吾に、さらなる追い打ち。

「あ、ひょっとして……図星?」
「天草っ!貴っっ様あああああっっっ!!」

いきなり振るわれた木刀を避けつつ、龍之介は余裕の笑みを浮かべてみせる。

「甘いな、鬼堂!そんな棒切れでこの高貴なる俺様が倒せるもんか」

実力的には信吾の方が圧倒的に強い。が、龍之介相手だと妙に感情的になるから、逆に太刀筋も単純になってしまう。
これまで龍之介が信吾と五分に渡り合ってきた理由は、そこにあった。

「さあ、悔しかったらカモンカモン♪ もっとも、シンちゃんじゃ一生かかっても当てられるわけないけどな」
「何をやっておるのじゃ、2人とも!」

さしもの『女王』も顔色を変える。『騎士』たちが迫っているというのに、喧嘩を始めたのだから無理もない。

「急がぬと飲み込まれるぞ!」
「だってさ。怖くなったら逃げてもいいんだぜ、鬼堂」
「ふん。あの程度の雑兵、貴様と一緒に真っ二つにしてくれる!」

た、単純な奴。

龍之介は力が抜けそうになった。こうも簡単に引っ掛かると、つまらない気もする。
そんな彼の思いも知らず、信吾が木刀を振り上げ襲いかかった。

「愚か者がっ!」
「『女王』! 『騎士』たちのすぐ上を飛べ!」

羽扇を振りかぶった『女王』を、龍之介が止めた。その言葉の鋭さに、『女王』は反射的に従っていた。
素早く宙を舞い、『騎士』たちの頭上に動く。

「妾が命令されるとは……!」

悔しさを感じながら、背後を振り返る。2人が大群に飲み込まれるのは時間の問題だ。

「食らえっ、天草ああっ!」

ぶんっっ。

手加減無用の一撃は、しかし龍之介が見事にかわす。空気の切り裂かれる音が、龍之介の耳元を通り抜ける。

――当たったら死んでるぞ、おい!

それでも顔には笑みを浮かべたままだ。多少ひきつっているかもしれないが、今の信吾には余裕の笑みと思われるはずと信じて。

「おのれっ!」

案の定、信吾は再度突進をかける。

5……4……

――龍之介は頭の中で静かに時を刻んだ。タイミングがすべてだ。間違ったら本部には辿りつけない。
頬に流れる汗のことすら、気に留めなかった。

3……2……1。

「天草、覚悟!」
「――ゼロ!」
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© 1997 Member of Taisyado.