第3章:RUNAWAY
〜不思議の国へようこそ?〜
小さな頃に見ていた夢。
お爺ちゃんやお婆ちゃんが話してくれた、秘密の物語。そこには色んなものがあって、何でも手にすることができた。
小さな頃に流れ込んできた「現実」。
お母さんやお父さん……他の誰もが持っている、秘密。そこには怖いものや嫌なものがたくさんあったのに、耳を塞ぐこともできなかった。
でも。
お爺ちゃんとお婆ちゃんは魔法のように、怖いものや嫌なものを消してくれた。だから大丈夫だった。
お父さんとお母さんは変わってくれなかったけれど……。
でも。
魔法は突然消えてしまった。そして、小さな頃の物語も。
「淋しい……」
「怖いの……」
「嫌なの……」
誰かに助けてほしい。誰かに聞いてほしい。誰かと一緒にいたい。
その願いが叶えられたら。
叶えられたら……。
―― 一度だけ、叶えてくれた子がいた。名前ももう思い出せないけれど。あの子は確かに私を助けてくれた。私の声を聞いてくれた。私と一緒にいてくれた。
誰だったんだろう……?
ただ、思い浮かぶ名前は――『ありす』。
「……さん、永沢さん!」
「え?」
顔を上げた少女――永沢有子は、今まで自分が眠っていたことに気がついた。分かった途端。
「ご、ごめんなさい〜。私、寝てました? あのっあのっ、すいませーん!」
赤面しながら、大きな声で謝り続ける。
図書館の中で。
「あ」
すでに図書館中の生徒たちが彼女を見つめていた。驚いた顔、呆れた顔、迷惑そうな顔――少なくとも嬉しそうな顔をしている者はいない。
「う〜〜〜〜〜〜〜………………ごめんなさいぃ」
「私に謝られても困ります」
有子を起こした少女がしっかりとした口調で告げると、おどおどしたままの有子の腕を引っ張った。さすがに場所を変えたいのだろう。有子の方も真っ赤な顔で彼女に着いていく――連れて行かれる、と言った方が正確かもしれないが。
二人が移動した先は禁帯出の本が整理されている部屋。図書委員でも滅多に入らない場所である。
「疲れてたかもしれないから、寝てしまったのは仕方ありませんけど……図書委員が館内で騒いじゃ駄目ですよ」
「はい。」
しゅんとする有子の表情を見て、もう一人の少女――小林美希(15)高等部1年F組・図書委員会副委員長・文芸部所属――は軽くため息を付いた。
「じゃあ、こっちの方はお願いしますね」
「あ、あの、美希ちゃん!」
呼び止められた美希は振り返ると、唇に人差し指を当てた。
「もう少し声量を下げてね――それで、何ですか」
「アップルパイ、好き?」
「――は?」
唐突である。居眠りと副委員長とアップルパイに、果たしてどのような因果関係があるというのかっ!?(ばばーんっ!)
「あのね、今夜作ろうかなーって。美希ちゃんに。眠かったわけじゃないんだけど、お詫びなの。変な夢見ちゃったし。ごめんね。」
……すでに未知の言語かもしれない。
しかし美希は少し考え込んだだけで、すぐに微笑んでみせる。
「つまり、永沢さんはうっかり眠ってしまった事のお詫びをしたい、と。それで、私がアップルパイを好きかどうか聞きたいんですね?」
「うん」
う、うんって……あっさり言うけど、彼女なら理解できると信じていたのだろうか?
永沢有子。なかなかに恐ろしい娘である。
「まあ、いいですよ。甘いものは何でも好きですから」
「良かったあ……私、頑張るね!」
「……構いませんけど、静かにお願いします」
どこまでも冷静な副委員長の忠告に、有子は首をすくめた。それは卑屈さなど全くなく、可愛らしさに満ちていた。
憎めないなあ――美希は思わず苦笑しながら、部屋から出ていった。
「んーっと……材料は……あったっけ? お金足りるかなあ……」
書棚の整理をしていても、すでに有子の頭の中はアップルパイのことで一杯である。(シャレではない)
さて、ここで問題。
あなたは書棚の整理をしながら、アップルパイの作り方を再確認していました。そんな時突然、あなたの目の前に人が現れた場合、あなたとその人はどうなるでしょう?
1.戦う
2.ぶつかる
3.告白しあう
(配点5点)
永沢有子。彼女の場合は、と言うと。
まあ、当然のごとく、2番を選択した。相手は空間を渡ってきたのだから、無理もない。
「きゃっ」
有子と、空間を渡ってきた一人が同時に声を上げる。少し間を置いて、有子の胸の上に何かがのっかかってくる。
「え?……」
――何だろう?何だろう?えーっ、何だかもぞもぞ動いてるぅ〜。やだ、ひょっとして、変な生き物とか……え〜、誰か何とかしてくださぁーいぃ……。
さっさと目を開けろって。
さり気なく突っ込んだ読者も多いことだろう。だが、それができたら有子の魅力は半減してしまうのだ。
「いたたた……ちょっと、『チェシャ猫』!! 一体どこに飛ばしてるのよ!」
<無理言わないで欲しいにゃ。ただでさえ『ありす』の力がなくなってるんにゃ。ボクらの能力も不安定になってるんだにゃ。>
「そう言うことは先に言って!」
先程、有子がたしなめられた時より遥かに大きい声での応酬が始まる。
――大きい声?
その時、有子の中にある図書委員としての使命感が燃え上がった。
「図書館内では静かにして下さいっ!!!」
しーん……。
さすがに彼女の言葉と迫力には逆らえなかったようで、二人(?)は沈黙した。
しかし。
生徒たちに迷惑がられ、美希にため息をつかせたのは、有子の方であったことは言うまでもない。
<……『チェシャ猫』め。余計なことを……>
そいつは苛立たしげに息を吐いた。影の深淵が、そいつの根城だ。何も見えない。そいつの姿も、他の誰の姿も。
<『ありす』……お前はどこだ?どこにいる?>
そいつがただ一人、求める女性。かつてそいつに命を吹き込み、力を与えたもの。たとえそれが彼女の望まぬ事であったとしても……。
<『ありす』。必ずお前を見つけだす……>
だが、予想以上に力を使ってしまっていた。『ありす』と間違えて捕らえた少女に手を焼いたためだ。傍に『チェシャ猫』がいることも、災いした。
しばらく休むしかない。
<あいつ……あの小僧も……動くはずだ>
そいつは瞳を静かに閉じた。
© 1997 Member of Taisyado.