“青葉の笛” 宮志摩笙

朝。
それは一日の始まりである。多くの家々で目覚まし時計が鳴り、台所が朝食の支度で賑わい、出勤、登校の為に家中が活気づく時間である。
ここ、樹(いつき)家もその大方の例にもれない。
ただ一つ異なる点を挙げるとすれば……

「さぁ、朝の稽古よ! 宮志摩 笙! 覚悟を決めて出てらっしゃい! 」

早朝から、家の中に怒鳴り声が響くことであろう。
ついでに家中を走り回っているらしい足音も聞こえる。
この声の主は、名前を樹 若葉(いつき わかば)という。
中学の剣道部に籍を置く彼女の朝は早い。
それは当然に早朝トレーニングの為なのだが、彼女の場合、そのトレーニングの目的が普通とは少し異なっているのだ。
本来、トレーニングというものの目的は、心身の鍛練や技量の向上といった健康的かつ前向きな事柄におかれるものである。
無論、彼女のトレーニングにもそれらは含まれているのだが、付け加えてもう一つ、彼女のトレーニングには目的とされることがあった。その目的とは、

「ああ、若葉さん、お早う御座います。 今日もいいお天気ですね。」

今、目の前で彼女に微笑みかけながら挨拶をしてきた男を、叩きのめすことだった。
その男、宮志摩 笙は、一年程前からこの家に居座り、彼女の平穏だった生活を目茶苦茶にした(と彼女自身は思っている)若者である。
現在は彼女と同じ私立校の高等部に在籍しており、眉目秀麗、頭脳明晰、スポーツの出来るフェミニストと、同世代の少女達の人気を一身に集めそうな要素を兼ね備えた若者であるが(事実、中等部、高等部の女子生徒には、かなりの人気がある)、彼女にとっては有能であり過ぎるが故にマイナス印象しか覚えない相手なのだった。
加えて、

――何だってこいつは私より料理がうまくて、剣が強くて、その上、髪が長いのよ!

ということらしい。
実際、自宅が道場であり、中学の剣道部員としては市内でも指折りの剣士である彼女は、同世代の者に負けを喫したことは殆どなかった。
だが、そんな彼女が今、目の前で鳩や雀に餌をやっている男にはどうしても勝てないのだった。
別に、全く打ち合いにもならない、という訳ではない。
というより、練習では一本を取ることもしばしばある位だった。
にも関わらず、実際の試合では一度も彼に勝てないでいるのだった。
日頃、彼女の半分も練習をしていない者にだ。
目標が目の前に見えているのに、どうしてもそれに追いつくことが出来ない。
こうして、彼女の中に蓄積されていった捌け口の無いフラストレーションが、結果として、早朝からの大騒ぎを引き起こす理由となっているのだった。

「お早うじゃないわよ! 勝負だって言ってるでしょ! 早く準備しなさいよ!」
「でも、まだこの子達に餌をあげ終わってませんし……」
「そんなの、後だってできるでしょ!」
「それに『勝負』ではなく、『稽古』でしょう? 我が樹流において、正規のもの以外の試合は禁止されているのですから。」

男――笙の言葉に、思わずカッと頭に血が昇る。

「そんなこと判ってるわよ! へらず口叩いてないで、さっさと道場に来なさいよ!」

若葉の上げた大声に、笙の近くにいた雀達が驚いて逃げてしまう。
暫くは逃げてしまった雀達を残念そうに眺めていた笙だったが、やがてため息を一つつくと、

「すぐに参りますから、先に行って、待っていて下さい。」

と、怒った様子もなく彼女に微笑みかけて、自分の部屋に着替えに行ってしまった。
一瞬、笙の微笑みに見とれてしまった若葉だったが、すぐに気を取り直すと、

――今日こそはあいつに勝つ!!

との決意も新たに道場にむかうのだった。

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「みんなー、朝御飯出来たよー。」

海外に赴任している両親に代わって台所で朝食の支度をしていたこの家の次女、樹 双葉(いつき ふたば)が道場の戸を開けた時、既に中での勝負は決していた。

「あ、お爺様もここにいたの? ご飯出来たから、早く来てね。」
「うむ。」

今まで、弟子達の勝負を黙って検分していたこの家の主、樹 光憲(いつき みつのり)は始めて言葉を発すると(といっても返事をしただけだが)、静かに道場を出ていった。

そして、竹刀の片付けをしていた弟子の一人、笙も、一通りの片付けを終えると双葉に労いの言葉をかけた。

「毎朝ご苦労様です、双葉さん。今朝はお手伝い出来なくてすみません。」
「そんなことないです。笙さんこそ、毎朝お姉ちゃんの相手、大変でしょう?」
「気になさらないで下さい。私の方も楽しんでやっている面もありますし。」

にっこり微笑みながらそれだけ言うと、笙もまた道場を出ていった。

「ほら、お姉ちゃん。いつまでも固まってないで。ご飯冷めちゃうよ。」

双葉が、最後に残った一人ー姉の若葉ーに声をかける。
だが、若葉はそんな声は全く聞こえないかの様に立ち尽くしていた。

――また負けた。また負けた。また負けた。また負けた……

そんな想いで心を埋め尽くし、呆然としている姉を見上げて、双葉はため息を一つつくと、

「じゃあ、早めに立ち直ってね。じゃないと、また学校遅れるよ。」

とだけ言い残し道場をでていった。後に自失したままの姉を残して。
樹家のいつもの光景である。

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